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青淵文庫

2009年03月02日 10:01

渋沢史料館の「晩香廬」と「青淵文庫」を見に行ってきた。

ここのところの雨続きの天気に少しうんざりしていた。
ジムの帰り道、このまま晴れそうだなあと空を眺め、
カメラを持って電車に乗りました。

飛鳥山公園は渋沢栄一の旧邸があった場所。
日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一。
その旧宅は「曖依村荘」と呼ばれ1878年(明治11年)
接待用の別荘として建設されました。
1901年(明治34年)から栄一が亡くなるまでの30年間は
本邸として使用されたそうです。
第二次大戦の空襲で大部分の建物が焼失しましたが
「晩香廬」と「青淵文庫」は焼失を免れました。
この二つの建物はいずれも国指定重要文化財で、
設計はいずれも田辺淳吉です。
「晩香廬」は1917年(大正6年)清水組(現清水建設)4代目当主清水満之助が
栄一に贈った建物で当時清水組(現清水建設)の技師長だった田辺淳吉が
設計をし清水組が施工をしました。
その後恩師の中村達太郎と中村田邊建築事務所を設立し、設計にあたり、
1922年(大正11年)「青淵文庫」起工し1925年(大正14年)竣工します。



1923年竣工間近な9月関東大震災に遭い大きな被害があったようです。
その後2年を掛けて基礎部分から再工事となり堅固な建物となったようです。
外に当時の震災の跡が分かる、発掘された震災前の建物の一部が展示されています。

田辺淳吉は1879年(明治12年)生まれ、1900年(明治33年)東京帝国大学建築学科に進み、
帝大卒業後1903年(明治36年)清水満之助商店(後の合資会社清水組、そして清水建設)
に技師として入社します。
1913年(大正2年)清水組五代目の技師長となりますが、
自ら設計することへの思いを捨てきれず、
1920年(大正9年)清水組を退社、翌1921年(大正10年)2月東京帝国大学を退官した
中村達太郎と共に中村田邊建築事務所を設立します。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災が起こり多くの建築物に被害が出ました。
その震災処理の最中過労と病気のため、47歳という若さで亡くなりました。

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